お休みを頂いてロシアのサハリン州に行って参りました。我々の国では1905年~1945年の40年の間、日本統治下時代の「樺太」という名の方が聞き覚えのある方も多いかと思います。実はその樺太が義祖母の出生の地であり、彼女はそこで生まれ12歳で終戦を迎え、その混沌の中旧ソ連が協定を破り侵略して来て、その時銃弾を受けながらも生き延び、そしてソ連領となった後も15歳で内地に引き上げるまでの間そこで暮らし、現在88歳に至るまでの期間一度も故郷の地を踏んでいませんでした。
僕が生まれてから日本という国は、どこも侵略してもされてもいないので想像しづらい事ですが、自分の人生に置き換えると、九州で生まれ育ち、その後ロシア軍が攻めて来て、そして今九州がロシア連邦の一部となり故郷の宮崎が地名は愚か全く異なる文化や言語に変化して政治的な理由で長い間帰ることも出来なかったといった状況です。
もし自分だったら、生きてる間にもう一度故郷の地を踏みたいと思うと思い、今回我々二人の力で70年以上越しの帰省を実現させました。
生まれ故郷の恵須取(現ウグレゴルスク)には行く事は出来ませんでしたが、所縁のある真岡(現ホルムスク)と都である豊原(現ユジノサハリンスク)には訪れる事が出来ました。
もちろん70年の時を経て街の風景も人々も全てと言って良いほど変化しています。義祖母の目にはどう映ったかは解りませんが、車椅子に乗り街を巡って行くと彼女の記憶の中にだけある風景と照らし合わされたのか、次第に当時の施設の場所や名称、その時の知人達の名前やあった出来事などを口にする様になりました。
実は僕自身の母型の祖父母も日本統治下時代の台湾で出会っており、父型の祖父は戦前に沖縄から内地に上がって来ていますが、もう四名とも祖父母は他界しているので、昔の話を聞きながら一緒に旅行をする事は出来ません。
今回義祖母と旅しながら何となく自分の祖父母の事も考えながら歩んでいました。
義祖母が黒パンを懐かしみながら食べる姿や、飛行機の窓から外を眺めて孫の手を強く握るしわしわの手を見ながら自分の祖父母の事と重ねていました。
そして旅の最後の夕食の時、五年前に他界した旦那様から、実は逝く前日に50年越しに「お前のこと守るって言っただろ?幸せにするって言っただろ?」と言われた事、そしてその日が偶然にも3月10日東京大空襲の日であり旦那様の継母の命日でもあり、義祖母が「お母さんと同じ船に乗って行きな。」と言ってその翌日に旦那様は天国に旅立って行った話など貴重な話を聴けました。
そして彼女にとって長い間ここは「泥棒の国」しかし今回多くの現地の人に助けられ親切にされ、彼女の中でのこの国の印象が変わり、過去70年間以上の記憶をロシア料理を美味しそうに食べながら嬉しそうに語る姿が本当に神々しく僕の目には写り、本当に連れて来て良かったなと感慨にふける事が出来ました。
人に歴史あり